雨はまだ降り続いている。
雨止みを待つために飛び込んだこの空家は、長い事人の手が入っていないらしく、黴と埃の臭いが充満していた。
ところどころ穴の開いた壁や屋根からは容赦なく雨水が漏れてくる。これで、果たして雨宿りの意味があるのだろうか。
荒れ放題のあばら家の、腐った畳に、私と衣笠は向かい合うように座り込んでいた。彼の下には私の上着が敷かれている。私が善意でそうしてやったのだ。さすがにこの畳の上に直に座らせるのは気が引けた。
秋もそろそろ終わりを告げるこの時期、雨に濡れた体は冷えきっている。室内が薄暗いのは、太陽が厚い雨雲に隠されているからか、ここの日当たりが悪いからか、はたまた、すでに日が落ち始めているからだろうか。
雨宿りを初めて、どれくらい経ったのだろう。雨足は強くなるばかり。傘と言えば衣笠が持っているぼろだけで、とてもこの雨を凌げるとは思えない。
舌打ちをしたい気持ちで、憎々しく息を吐いた。
「―――寒いのですか」
無意識に、手をすり合わせていたのか。衣笠が、少し不安気な瞳でこちらを伺ってくる。
外では帽子をしていた分、衣笠の髪はそれほど濡れてはいない。ぼろとは言え、傘のおかげもあるだろう。それでも、横殴りの雨のせいで、服はしっとりと濡れていた。
幽霊は、寒さを感じないのだろうか。
「何、それほどでもないさ。君は、」
衣笠の頬に伸ばした指が触れるか否かのところで、彼の体がわずかに跳ねる。指先が冷たかったのか、それとも、私が手を伸ばしたことに恐怖を感じたのか。
体を逸らして私から距離を取る衣笠の、まるで小動物のような可愛らしい反応に、私は喉の奥でくっと笑う。すると、彼は機嫌を損ねたのか、頬を赤らめてうつむいてしまった。開いた襟口から細く白い彼の首が覗く。短く整えられた漆黒の髪と、その膚のコントラストが美しい。
「…君は、肌が白いな」
死んでいるせいか、とは言わなかった。衣笠が戸惑うような視線を向けてくる。
私は、彼の頬をそっと撫でた。彼はわずかに目を細めただけで、今度は逃げなかった。
「冷たい」
震える唇から、ともすれば雨音にかき消されてしまうようなかすかな声が漏れた。そうか、幽霊も温度を感じるのか。手のひらで頬の全体を覆うようにして、親指だけで頬骨のあたりを撫でる。目の縁をなぞられた時、瞳を抉られるとでも思ったのか衣笠がぎゅっと目を閉じた。睫毛が指に触れ、震えているのが伝わる。
私はそのまま、彼の膚の感触を楽しむように手のひらを首へと滑らせた。
逆の手で彼の胸を押し、畳に組み伏せる。そのせいで畳と距離が近くなったせいか、単純に埃が舞い上がったせいか、酷い黴臭さが一層鼻についた。
そう勢いよく押し倒したつもりはなかったのだが、思いの外強く背中を打ったらしく、衣笠が息を詰まらせて小さく呻く。その苦悶の吐息に、私の体に怪しい火が灯る。
「探偵、さん?」
怪訝そうに、どこか怯えた風に私を見上げてくる彼の片目が揺らいでいる。私が良からぬことを考えているとなんとなく覚っているのか、私が何をしようとしているのか、察したのか。瞳の中に過る不安と恐怖の底にかすかな期待を見たのは、私の思い込みだろうか。
思わず笑った私につられて、衣笠もいびつな笑みを浮かべた。
「あっ」
彼の鎖骨に爪を立てると、上ずった声が漏れた。痛かったのだろうか。
私はそのまま手を上に持っていき、衣笠の首筋を何度か撫でた。つばを飲み込む彼の喉の動きが、文字通り手に取る様に伝わってくる。まだ少年と言っていい彼の細い首は、片手でも十分に押さえつける事が出来た。両手でやっては加減がきかぬ。片手で首の前面を覆い、少しずつ少しずつ体重をかけて行った。
「…ぐぅ、あ……」
苦しげな声は、それでもまだ余裕がある。彼の冷たい手が私の手を掴んだ。この雨に冷えたせいか、それとも彼が死人のせいなのか、冷やりとした感触だけでは判別がつかなかった。
徐々に力を強めていく。私の指の先が、彼の膚に埋まっていく。
「あ…っ、たんて、さ……」
少しでも空気を取り込もうとしているのか、彼の口が大きく開かれた。幽霊にも呼吸が必要なのか。それとも、以前首を絞められた経験がそうさせるのか。喘ぐ彼の口の中で、舌が別の生き物のようにぬめぬめと動く。私はおもむろに、彼の口の中に片手を突っ込んだ。
「ぐっ!? んん…!」
指の腹で奥歯をなぞり、犬歯を押してその頂が指の皮膚を破る感触を楽しむ。痛みすら今は愉悦。
血の味を、彼も感じるのだろうか。ふとそう思って、舌を掴んで指から出た血を擦り付けてやった。爪を立て、舌を強く引っ張ると、苦しげに細められた彼の目から涙が溢れる。
「君は、舌が長いな。私はそうでもない…かな? 自分ではよくわからないな」
どうでも良い事を淡々と呟きながら、衣笠の舌を押したり撫でたりして弄ぶ。その度に舌がびくびくと蠢くのが愉快だった。呑み込めなかった唾液が彼の頬を伝って、私の上着に染みていく。
舌の根元を強く押されて吐きそうになったのか、衣笠は勢いよく頭を振った。舌が指から抜ける瞬間の感触が、まるで強く舐められているようで、背筋がぞくりとした。
えずいて喘ぐ彼の口から、だらしなく涎が垂れる。私の指にもべっとりと彼の唾液がついていた。それをなんとなしに舐めとれば、彼は信じられない物を見たと言うように顔を赤くさせた。血色の良い幽霊と言うのも妙な物だ。
「何てこと、するンですか…」
恥ずかしそうに言う彼の声が掠れているのは、まだ息が乱れているからか。そう言えばいつの間にか首にかけていた手が緩んでしまっていた。
まだ雨は降り続いているようだ。衣笠が小さく咳込む。苦しげな彼を、私はただ黙って見下ろしている。
今、何時くらいだろう。
辺りはますます暗くなっていて、近くにいる衣笠の顔すら、はっきりとは見えない。わずかな光を反射して、衣笠の膚だけが浮かび上がって見える。その首に転々と滲む、影を垂らしたような跡は、さっき首を絞めた時にできた物だろう。
もっと良く見たい。
私は、下に敷いたコートのポケットをまさぐり、何時だったかどこかの喫茶店で貰った燐寸を取り出した。あすこの珈琲は薄くて不味かった。そんな事をぼんやり思い出す。
「…探偵さん、それ」
ポケットの中に入れていたからか、燐寸はしけっていないようだった。
「探偵さん、やめて、やめてください」
燐寸をする。ジジッと音がして、独特の臭いがつんと鼻に刺さる。燐寸の頼りない灯りに照らし出された衣笠の瞳が、見る見るうちに恐怖に染まっていった。いやいやと頭を振る彼の顎を掴み、強引にこちらを向かせた。
「君は、火が怖いんだったね。かわいそうな衣笠」
彼の包帯からわずかに覗く、焼け爛れた肌に指を這わせる。
「熱かったかい? 痛かったかい? 苦しかったかい? ここはまだ、痛むかい?」
衣笠は答えない。片方だけ残った瞳は今や恐怖を映すばかりで、そこからぼろぼろとこぼれる涙に火が反射して、まるで光が流れ出しているようだった。
炎が燐寸の軸を燃やし、冷えた指先がちりちりと熱せられていく。衣笠の白い肌に、火の赤が揺れている。
「やめてください、探偵さん。こわい、こわいんです、やめて、お願いですから…」
喘ぐような懇願にこたえるように、燐寸は静かに燃え尽きた。
私はその燃えカスを、雨漏りで出来た水たまりに投げ捨てた。室内なのに水たまりがあると言うのも妙な光景だ。
「…探偵さん」
衣笠は、力ない涙声で囁くように呟いた。
「ボクにひどい事をするのは、愉しいですか」
「愉しいね」
即答すれば、弱々しいため息が返って来る。
「あなた、酷い人だ。―――人でなし」
すでに人でなくなった君に言われると、実に滑稽だな。
そんな嘲りを喉の奥で笑い声に変え、私は、衣笠の首に手をかける。今度は両手を。
「う、ぎぃっ…」
力を籠めれば、途端に衣笠は苦しげな呻き声をあげる。細い骨が手の中でみしみしと軋むのを感じた。それでも私は、力を緩めない。
「ねぇ、衣笠。私は君に何度この行為をしただろうか。それでも君は私の元に現れる」
彼の手が半ば無意識に私に伸ばされ、首を掴む手を引っ掻いた。爪が皮膚を切り裂く。ろくな抵抗にすらならないそれは、猫がじゃれついているようだった。
「―――首を。首を絞めるとき、目が合うんだ。ほら、こうやって、見つめあうみたいに。それが良い。良い光景じゃあないか。命が途絶えるその瞬間を、こうして真正面から見ることができる。私はその瞬間を、きっと、何度だって」
後の言葉は、笑い声に消えた。もともと突き上げる衝動のままに口を突いて出た言葉だ、自分が何を言いたかったのかすらよくわからない。今はもう、目の前の事に集中すればいいじゃないか。燐寸が燃え尽きる瞬間を待つように、瞬きすら惜しんで。
空気を求めぱくぱくと口を開く衣笠は、酸欠の金魚のようだ。血を止められ、顔色がどんどん変化していく。赤い瞳は、すでに焦点が合っていない。
ふと、言い様のない憐れさが胸をよぎった気がした。
「…君は、君はそれでも、また私の前に現れるのかい? こんな思いを、何度繰り返しても」
答えなど、求めてはいなかった。どのみち首を絞められていては返事もできまい。
私の手を掴む彼の力が、徐々に弱くなっていった。
「まだ私の手は冷たいかい?」
意味のない質問。答える余裕などないだろう。もしかしたら、聞こえてすらいないかもしれない。
それなのに彼は、なぜか、かすかに笑った気がした。
「―――今度こそ、死んだと思いましたか?」
戯れの時間が過ぎてしまえば、体からは急速に熱が去っていく。あとはただ、情事の後のような気怠さだけが残った。
先程までそこの畳の上で死んでいたはずの衣笠は、私の上着にくるまってくすくすと笑っている。
「少しね」
冗談めかして肩を竦めれば、彼はさらに笑みを深くさせた。
「嫌だなぁ。そんな簡単に、探偵さんを一人になんてしませんよ。ボクはずっと一緒にいます。何度殺されても、何度裏切られても、ずっとずっとずっとずっと地獄の果てまでもずうっと」
狂っているのか。壊れているのか。衣笠はどこか恍惚とした笑みを浮かべている。それを見た私の胸に広がるのは、紛れもなく、喜びであった。
可愛い衣笠。
ああ、雨の音がする。
雨止みはまだ遠い。
爪に裂かれた傷が、じくじくと疼いた。これは甘い闇、それとも甘い病みか。そんな言葉遊びが脳裏に浮かぶ。
可愛い衣笠。私を想い、私の前に現れた衣笠。ならば私は何度でも君を愛そう。私なりのやり方で、君を愛し、壊し、殺し、慈しもう。何度も、何度も、何度でも。
可愛い衣笠。可哀そうな衣笠。私の、私だけの憐れな幽霊。
―――雨はまだ降り続いている。
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